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クラブの歴史

同志社大学マンドリンクラブの歴史

我が同志社大学マンドリンクラブ(La Società Mandolinistica dell’Università Doshisha)は、1910(明治43)年に一人の神学部の学生が寮内に楽器を持ちこんで紹介し数名の者とグループを組んで演奏を始めたことに端を発する。 1916年にプリムローズソサエティ(グリークラブの前身)内にマンドリンクラブとして認められ、1919年に独立した。1922年には技術顧問として菅原明朗先生を迎え、また、春秋2回の私演会を開くことを決めてその第1回を2月25日に開いた。

1923年1月21日、武井守成氏の「シンフォニア・マンドリニ・オルケストラ(後のオルケストラ・シンフォニカ・タケヰ)」が主催する第1回全国マンドリン合奏団コンコルソ(於・東京帝国ホテル)において課題曲「無言詩」(C.A.ブラッコ)と随意曲「メリアの平原に立ちて」(G.マネンテ)を演奏して優勝、つづいて翌年11月30日に行われた第2回コンコルソにおいても課題曲「ソレントの女」(L.ファンタウッツィ)と随意曲「ギリシャ風主題に依れる序楽」(N.ラウダス)を演奏して齋藤秀雄氏率いる「オルケストラ・エトワール」と同位優勝を遂げた。 このようにして昭和初期に最盛期を迎えたクラブも戦時色が深まると共に演奏会の開催が困難となり、遂に1943年11月に行われた第41回私演会(学徒出陣壮行演奏会)を最後に、創立以来の輝ける歴史を中断することとなった。

1945年再建にとりかかり、翌年ようやく細々と活動を開始、1948年6月20日現役17名・OB24名で5年ぶりの私演会(第42回)を開き、1958年から大阪に進出して毎年春秋2回の演奏会を開くようになった。 1963年、戦前からの伝統である、ヴィナッチャ・ムニエルの流れに依る統一的奏法とプレクトラム音楽の研究を復活して技術面・研究面の諸問題を解決するため、トレーナー制を確立すると共に中野二郎先生を講師に招き両面に亘ってご指導を仰いだ。 以降研究誌「S.M.D.」を発刊するなど資料研究・技術共に充実し、先生の編曲に依る吹奏楽・管弦楽・ピアノ曲を多く発表した。 1969年5月、西ドイツのハノーバーで開催された全独マンドリン音楽祭に日本代表として南谷博一氏と共に招待され武井守成氏・堀清隆氏・服部正氏など邦人作家の代表作とアンコールに幻想曲「華燭の祭典」、「マンドリンの群」を演奏、その後1ヶ月に亘って欧州各国で演奏旅行を行った。

その後、1984年の第105回定期演奏会を最後に中野二郎先生が技術顧問を御勇退されたが、1994年よりOBである石村隆行先生を技術顧問に招き、技術・資料の両面でご指導を仰いでいる。 そして、2010年3月には創部100周年を記念して現役OB合同演奏会を開催し、新たなる一歩を踏み出した今、我々は諸先輩が築き上げられた伝統を再認識し、今後ともプレクトラム音楽の発展と普及に努めていく考えである。

技術顧問・石村隆行先生について

中学、高校、大学を通じてマンドリンクラブに所属、指揮者として活躍する。
1984年、日本マンドリン連盟主催 第9回独奏コンクールにおいて第1位を獲得し、福岡と京都で記念リサイタルを開く。
1986年渡伊、Padova の Cesare Pollini 音楽院に留学、演奏と共にマンドリン史料研究にも研鑽を積む。
1993年 Alassio 市主催の国際器楽コンクールにおいてギター・リュート・マンドリン部門で第1位を獲得。同年、音楽院を主席で卒業しディプロマを得て帰国。
1994年に東京・大阪でデビューリサイタルを開き、同年12月 ESTUDIANTINA PHILODOLINO di KYOTO を組織。
中野二郎、川口雅行、Ugo Orlandi の各氏に師事。
現在、演奏、指揮のほか編曲、出版、研究等幅広い活動を行うと共に、種々のコンクールの審査員を務めている。同志社大学マンドリンクラブや甲南大学文化会マンドリン・ギタークラブなどの技術顧問、名古屋音楽大学マンドリン科客員教授に就任し、指導・教育にも力を入れている。

あああ


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